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本年の伊曾乃神社秋季例大祭も天候に恵まれ無事終了し、早一ヶ月を過ぎようとしている。私はと言うと、祭り期間中各だんじりを見てまわり、先人職人達の大工仕事や彫刻や塗りの技、当時の人々の美意識の高さを改めて堪能させてもらった。

大正五年、東京から帰省後、高松市大工町の欄間彫刻師佐々木文吉氏の下で仕事をしている時、山本町の棟梁多田寅一氏がその技の高さに目を付け祇園社拝殿彫刻の依頼をする。その完成はそれまで近郷では見た事が無い写実的で細密、圧倒的な躍動感で迫ってくる彫刻であった。以後、多田一派の棟梁たち{多田寅一氏の弟子でもある長男多田三郎(観音寺山王 日枝神社棟梁)、図子好太郎(丸亀市本島 専称寺)、森平治(香川県三野町 弥谷寺山門)、や、横田俊作(香川県仁尾町 日枝神社)、守谷重吉(観音寺山王 延命寺、十三塚太鼓台)、宮本浅吉(壬生川北条 大気味神社)、丸岡久吉(香川県三野町吉津八柱神社山門)、など}は泰山彫刻のついた寺社を競うように建築していくのであった。

昭和二年五月、西條北の町に引っ越してからの近藤平はだんじりや太鼓台彫刻の他、驚くほどの量の彫刻をこなしていく。そのほとんどが大工棟梁や寺社からの注文品であった事は言うまでもない。
昭和二~四年頃にかけて旧西条市内の民家新築の際「神棚や仏壇」なども数十点を制作している。当時の記録には注文主の名前は書いてあるのだが町名が記されてないものがほとんどで、当時建設された民家を探して尋ねてはいるが、当主の代替わりなどで伝承されておらず、未だ十点ほどしか判明していない。

昭和五年、小松町大郷「河内八幡神社」本殿建築中の事である。神社下に住んでいる一人の若者が大工手伝いをしていた。後ろの荷台に本殿彫刻部品を積み自転車を押してくる近藤平を見つけると駆け寄り「私も彫刻の手伝いがしたい」と言う。大工でもなく神社氏子の奉仕者の一人であるにもかかわらず「この部品はまだ彫刻してないから」と、その下絵と彫刻刀を数本渡し「ここは、こうゆう風に彫っていく」と丁寧に教えてくれたそうである。その彫刻は大屋根の桁隠しとして現在でも本殿を飾っている。この若者は今年で99歳になったが、若輩の私たちの長時間の調査にも立ち会ってくれ、満面の笑みを浮かべながら当時の事をまるで昨日の事のように語ってくれた。

こういう話は他にも多々残っていて、大工弟子の頃、ある神社拝殿建設中、屋根上で作業をしていて鑿を折ってしまった。すぐ下で向拝彫刻の取付をしていた近藤さんが一本の鑿を貸してくれた。その鑿は私ら弟子が使う物とは違いすごい切れ味だったという。作業が終わり鑿を返そうとすると「そういう鑿を使いこなせる大工に早くなりなさい」とくれたそうである。それからは給料をもらうたび同じ銘の鑿を1本づつ揃えていったそうである。この棟梁も現在90歳とすでに現役は退いているが道具の手入れは欠かさずしていると鑿箱を見せてくれた。これが近藤さんから貰った鑿だと、使い込まれほとんど刃の残ってない鑿であるが、きちんと手入れがなされ怪しげな光を放っていた。現在では作る人も絶えた「小信」という銘の鑿で、まぼろしの彫刻刀と言われている。

昭和十二年、西条市河原津の「大崎龍神社本殿の修築」があった。脇障子彫刻の依頼を受けた泰山は、現地に赴き旧脇障子をデッサンして帰るが、題材が解らなければ彫刻できないと、神社祭神「和多津美神(綿津美神)」の話と自分の資料などを手がかりに「海幸・山幸」の話にたどり着く。延享二年(1745)橘守国が出版した「繪本直指寶」内の挿絵を参考に下絵を描き脇障子彫刻を完成させる。本殿向かって左側は「塩椎神」右側は「山幸彦(火遠理命)」で、兄海幸彦(火照命)の針をなくした山幸彦が塩椎神の導きで海の中へ探しに行く場面だ。この脇障子は海辺の長年の風雨にさらされ傷んでいるが、裏面彫刻も入り実際の倍近い板厚にさえ感じさせられる。龍や獅子のように烈しくはないが泰山彫刻の醍醐味が知れる一品であると言えよう。

西条市神拝乙(松之巷) 髙橋 清志