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明治二十七年(一八九四)一月十日 愛媛県宇摩郡土居村畑野(現四国中央市)に、近藤茂平・イセの次男として生まれる。幼い時から手先が大変器用であった平は、尋常小学校を四年で卒業した十歳の時、土居北野の宮大工であった伯父「真鍋杢次」に弟子入りする。
弟子入り当時には、一日の大工仕事が終わって掃除した後、木っ端やかんな屑を竹で編んだ籠に入れ背負って帰っていたそうであるが、体の小さかった平のその後姿は、現在の新小学一年生が大きなランドセルを背負っているように、まるで籠が歩いているようであったそうである。

大工仕事もみるみる上達し、五年間の修行期間を終える。
当時は教えてもらったお礼としての「お礼奉公」が当たり前の時代であり、右に漏れず平も奉公に励んでいた。
西條の「くすまつぁん橋」の後に、明治四十四年九月開通の「旧加茂川橋架け替え工事」に師匠と共に参加した時、同年代の若い技師が図面を見ながら師匠らを使う姿を目にする。
小学校しか出ていない平にとって、この事はどういう風に映ったのだろう。「彫刻師」を目指した経緯ははっきりとはわからないのであるが、これらの事がきっかけとなり、お礼奉公の途中であったにもかかわらず「これからは大工だけではだめだ。彫刻の道にも進みたい!」と弟弟子「久五郎」の助けもあり、師匠真鍋杢次の元を離れる。

一人になった平は、最初「高松の欄間彫刻店」に弟子入りするが、数ヵ月後「この師匠は私の師匠とするには腕が悪すぎる。」と、あっさりと辞めてしまうのである。
次に大阪へ渡った平は、今度は「唐木彫刻」をしている所へ弟子入りする。よほど目標が高かったのか、数ヵ月後「ここの師匠も私の師匠とするには腕が悪い」と、再び辞めてしまうのである。

そうこうしているところに「東京に日本一の彫刻師がいる」との話を耳にして上京。
大正元年(一九一二)八月、「東京相生町二丁目五番地(現在の墨田区両国三丁目の大島部屋付近)彫物師 金子光清」に弟子入りするのである。
この弟子入りには試験があったそうで、試験者の前に無造作に置かれた十数本の彫刻刀を並べ換え るという物。大工修行を終えていた平は、刃物の刃が如何に大事かという事を知っていたので、柄を合わし寸法順に刃を外に扇のように並べた。横に居た試験者は、平とは反対に刃を合わせ柄を外にならべたそうである。
時に平 十八歳の事であった。
その後、師匠金子光清の元に屋台大改修の依頼が入る。(この屋台は天保期制作の物で、文久期、明治初期、大正期、昭和期、平成期と修理がなされ、今なお、堂々とした姿で祭りに繰り出されている)この屋台の一部の下絵が近藤家に残されている。今年、下絵のコピーを持って現地に確認に行ったのだが、師匠光清の手は入っているものの、わずか十センチの人間像の顔にこれだけの表情がつけられる事に驚き感動し、しばらく写真も撮らず見入ってしまった。またこの修理時、光清は当時の腕の良い弟子六人におのおの一躯づつ「獅子の木鼻」を彫らしたそうであるが、どれが平作であるかを限定するには至らなかった。が、修行時代の関東での初の作品確認となった。

師匠の名前から取った「光金」の号を授かり、大正五年、土居に帰省してからは「観音寺市柞田 境八幡神社」「今治市玉川町 仙遊寺」「三豊市詫間町 新川観音堂」「西条市洲之内 前神寺」「丸亀市金倉町 円龍寺」「丸亀市福島町 厳島(一寸島)神社」「四国中央市土居町 八坂神社」「四国中央市豊岡町 大町太鼓台」「神戸市 不動明王像」「四国中央市川之江町 佛法寺」「西条市大保木 極楽寺」など次々と彫刻し、大正九年の暮、新たなる地「福岡市」へと渡る。

西条市神拝乙(松之巷) 髙橋 清志