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夏の厳しい暑さも峠を越え、朝晩にはめっきりすごしやすくなった頃、頭を垂れた黄金に輝く絨毯が風に舞いざわめきだす。きんもくせいの香りに誘われ、町のここそこからは、子どもたちが叩いているのか太鼓の音が聞こえ出す。伊曾乃氏子にとっては一年間待ち望んだ「おまつり」がもうすぐそこに来ている。

伊曾乃祭礼における「だんじり」製作者の一人として「近藤泰山」といえば、知らない者はいないだろう。大正末から昭和初期にかけて、七台{仲町小川、常心下組(現市塚)、玉津永易、喜多町(現日明)、新町(現福武天皇)、福武新田、新町}のだんじりの新調、二台のだんじりの修理を行い、亡くなってからも尚、昭和五十四年から始まった、だんじり新調ブームから三十年経った現在まで新調だんじりの彫刻にも多大な影響を与えている「彫刻師」である。

平成十一年九月十五日、建築意匠を専攻としている先生の同行として、初めて栄町近藤家を訪ねた時のことである。大正期~昭和初期に製作した作品の写真を貼ってある「アルバム」を拝見できる機会に恵まれた。そこには、泰山先生が彫刻した寺社仏閣の堂宮彫刻や佛像など数十枚の写真が貼られていた。それら写真を見た瞬間、身震いを覚えたのである。私はそれまで泰山先生のだんじり彫刻しか知らなかったのだ。実に写実的でリアルであり、物の質感を見事に表現している。建築部材として切り出された材木が、泰山先生と出会った事によって、彫刻という姿こそ変わるが、再び「命」を吹き込まれているのである。
しばらく私の中で潜んでいた「見たい聞きたい知りたい病」が再発した瞬間でもあった。

簡単に「近藤泰山」の経歴を書いておこう。
明治二十七年一月十日 近藤茂平、イセの次男として、現在の愛媛県四国中央市土居畑野に生まれる。幼い頃より手先が大変器用であったそうで、尋常小学校四年卒業と同時に、土居町北野の宮大工「真鍋杢次」の弟子となり五年の大工修行を終えた後、当時、日本一の堂宮彫刻師と言われていた東京相生町「金子光清(東京柴又帝釈天の本堂胴羽目板彫刻など)」に師事し「光金(みつかね)」の号を授かる。以後、彫刻師として成す。
大正三年、徴兵検査の為土居に帰省の折、土居神社に「大正三年十月 畑野 近藤平 彫刻全部刻」と刻銘初見の堂宮彫刻を残す。

香川県観音寺市柞田の「境八幡神社(大正六年)」、丸亀市「円龍寺(大正八年)」「一寸嶋神社(大正八年)」、愛媛県西条市「前神寺(大正七年~)」「極楽寺(大正九年)」など活躍後、大正九年暮、妻浦子、長男正廣、母イセを連れ、福岡市博多上新川端に移住。
大正十年、福岡県みやま市瀬高町小田「善光寺」、福岡県飯塚市幸袋の炭鉱王「伊藤伝衛門邸仏間」など始めとし、福岡一円に島根県、山口県から大分、佐賀、長崎県まで多数の作品を残す。

大正十四年九月頃土居町に帰省。観音寺市室本町「皇太子神社(大正十五年)」、大野原町「十三塚太鼓台(大正十五年)」、愛媛県新居浜市阿島「池王神社(大正十五年)」、西条市「仲町小川だんじり(大正十五年)」「常心下組だんじり(現市塚 大正十五年)」など彫刻し、昭和二年五月、西条北の町に、昭和六年駅前西に移住。この年四月「近藤泰山」と改名。昭和九年現在の栄町に移住する。

以後十八年間、仏師として、善通寺市観智院「修行大師像(昭和十一年)」を始め、西条市河原津「大崎龍神社(昭和十二年)」、松山市道後「義安寺(昭和十三年)」、観音寺市「日枝神社(昭和十四年)」など寺社堂宮彫刻、佛像彫刻など数百点の木彫作品を残し、香川県三野町大見「四国八十八箇所 第七十一番札所 弥谷寺山門の仁王像」を彫刻した頃病気のため寝込むようになり、仕上げの彩色途中、昭和二十七年十月二十九日、その腕を惜しまれながら六十歳で永眠する。「自分の仕事は人が知らずとも、神様仏様がよく知ってくれている。神様仏様に喜んでもらえるような彫刻師になりたい」が、口癖であったそうである。

調査開始当初は、ただやみくもに泰山彫刻の発見に努めてきたが、数年に亘る調査の中で、ここ最近になってようやく「近藤平(光金、泰山)」の「人となり」を垣間見ることが出来始めた。
生まれ持った彫刻の才能にくわえ、常に神仏を敬い信心し、仕事である彫刻には自身が持っている全力で当たり、分からないことに出くわせば自分の物となるよう徹底的に調査研究がなされ、妥協を許さない。中央に出て行く機会はいくらでもあったのに、あえて、地方の一職人として残ったのは何だったのだろう?

「自分の仕事は神仏様がよく知ってくれている」と言う言葉。人の評価は自分でするものではなく人が評価してくれるもの。私も一職人として手本としたい人物である。
次回より、年代を追い泰山先生と代表作品の紹介をして行こう。

西条市神拝乙(松之巷) 髙橋 清志